Column

2022.11.25

コラム第二回 明治時代中期、局紙の一大産地への歩み

みなさま、こんにちは。
株式会社 山路製紙所の山路勝海です。

「越前和紙の作り手・伝え手・使い手など、越前和紙に関わる方々へ、越前和紙の歴史を知ることの楽しさを共有していきたい!」という想いから連載することになった本コラム。第二回は第一回に登場した「印刷局」に関連するテーマを引き継ぎ、『明治時代中期、局紙の一大産地への歩み』について、みなさまと一緒に考えていきたいと思います。


■今回のテーマについて
 局紙(きょくし)は越前和紙の品種のひとつで、滑らかで緻密な紙です。手漉き・機械漉きの両方でつくられており、主に賞状/証券用紙/名刺/ハガキ/印刷用紙などに使われています。(写真1)

(写真1) 五箇で現在生産されている局紙類 (賞状、証券/証書、名刺/ハガキ/カード類、印刷用紙など種類は多岐にわたっています)

 越前和紙の産地である五箇は、明治時代中期に局紙の一大産地へと歩み始めます。(五箇とは、不老/大滝/岩本/定友/新在家の5村・五箇村) 
 近年、明治時代の局紙に関する文献を読み進めていくうちに、五箇が局紙の一大産地へと歩み出す過程には、ある「悲劇談」が関連していたことが分かりました。悲劇談とは「明治時代初期、新しい国産紙幣用紙の開発のために、東京の印刷局へ招かれた越前の紙漉き職人は生涯ふるさとの地を踏むことを許されなかった」というものです。詳しく調べたところ、この悲劇談は印刷局に招かれた紙漉き職人全員ではなく、特定の人物にあてはまるもので、実際には印刷局から帰郷する人物が居ました。
 その後、明治時代中期には「印刷局から帰郷した人物によって産地へもたらされた技術」をきっかけとして、五箇には局紙を中心とした繁栄の時代が訪れます。
 今回は悲劇談の背景を紐解きながら、当時の五箇が局紙の一大産地へ歩みだす過程について共有していきます。

※ お時間の少ない方は最後の「まとめと考察」をお読みいただくとコラムのおおよその全貌がご理解いただけます。

■はじめに

【 印刷局と越前五箇 】

 現在のお札(紙幣)は国立印刷局で作られています。明治〜大正時代、紙幣用紙を作る工場は「大蔵省紙幣寮抄紙局(おおくらしょうしへいりょうしょうしきょく)・大蔵省印刷局抄紙部(おおくらしょういんさつきょくしょうしぶ)」という名称で東京の王子村に設置されました。
 明治8年(1875)、紙幣寮抄紙局での新しい国産紙幣用紙の開発にあたり、五箇から紙漉き職人が募集されます。抄紙局へ招かれた紙漉き職人たちは現地の局員と共に研究を重ね、現在のお札に繋がる紙幣用紙製造の基礎技術を築きました。

※ 明治期は「印刷局」に至るまでの名称変遷が多いため、旧名称は使わずに「印刷局」と記載します。



【 印刷局へ招かれた職人たち 】

 印刷局へ招かれた紙漉き職人の第一陣メンバーは男女7名とされています。
 鉄道網が普及していないこの頃、蒸気機関車は大阪〜神戸間、新橋〜横浜間を運行していたのみで、7名の職人たちは紙漉き道具を携(たずさ)え、徒歩で東京の王子村へと旅立ちました。一行は大井川では増水によって川止めに会い、宿泊、飲食費がかさんで所持金を使い果たし、さんざんな姿で上京したとされます。現代の人々には想像もつかない苦難の旅でした。
 その後印刷局に招かれた第一陣を含む職人たちの内、姓名が判明しているのは以下12名で、さらに女工30名(姓名不明)も採用されていたようです。

加藤賀門(のちに河内と改名)・山田藤左衛門・岩野源三郎[*1]
小林伊兵衛/まつ夫妻・山口岩次郎・山口わき・加藤ふじ・西野いし・西野しげ・福田さよ・小島きよ[*2]
女工30名[*3]

※ 姓名が判明している12名の中には裏付けがとられていない人物もいます。人数についても諸説あるため、当コラムでは脚注[*1],[*2],[*3]の文献によりました。



■加藤賀門の悲劇談

 印刷局に招かれた7名の第一陣メンバーのひとり加藤賀門(かもん)について、『大蔵省印刷局百年史 第1巻』には、「岡本村の名門の出である加藤賀門は、郷土古来の紙漉秘法を他国に売渡した不届者(ふとどきもの)として排撃され、生涯郷里岡本の地を踏むことを許されなかったという、昔ならではの悲劇も伝えられている。」と記されています[*1]。(ここでの他国とは印刷局を指します)

同書では加藤賀門の悲劇談が生まれた背景は説明されていないため、以降では「印刷局の意図」と「加藤賀門・真柄武十郎」2人の人物をご紹介しながら、その背景を紐解いていきます。



■印刷局の意図と加藤賀門・真柄武十郎

【 印刷局は雁皮紙「鳥の子」に着目 】

 印刷局では抄紙工場の開設当初、新しい国産紙幣用紙の原料として「雁皮」に重点を置いた研究が進められていました。当時雁皮を用いた紙として知られていたものは「鳥の子」[*4](写真2)です。紙の色合いが鳥の卵に似ているところから名付けられたといわれています。江戸時代の百科事典『和漢三才図会』には、「紙肌滑らかにして書きやすく、性堅くして久しきに耐え、紙王というべきか」と書かれており、鳥の子(雁皮紙)は紙肌がなめらかで筆書きに適しているだけでなく、他紙よりも強く、長持ちする特性がありました[*5]。印刷局はこの特性に着目した結果、紙幣用紙には雁皮を採用する方針に決定し、鳥の子(雁皮紙)が得意な職人を必要としていたと考えられます。
 職人の勧誘は「鳥の子」の産地として有名だった摂津(兵庫県)名塩と、越前(福井県)五箇を対象に行われましたが、名塩からの応募者はありませんでした[*6]。また、紙幣用紙には大量かつ継続的に原料を供給できる体制が必要ですが、雁皮は栽培が難しいため、のちに紙幣用紙の原料は雁皮から栽培が容易な三椏に転換されます[*5]。

(写真2)  雁皮紙「越前鳥の子」

【「越前鳥の子」の名手、加藤賀門 】

 加藤賀門は天保7年(1836)、新在家村の加藤河内(かわち)家の長男として生まれます。加藤河内家は江戸時代には御用奉書・藩札・鳥の子・打雲(うちぐも)鳥の子など、一般の漉き屋では生産を許されない紙を漉く特権を持った、御紙屋(おかみや)[*7]という名門の家柄でした。
 賀門は「越前鳥の子」の名手で、「鳥の子」に着目した印刷局の意図にぴたりと合う人物でした。(写真3)

(写真3)  加藤賀門と新在家村加藤河内家 出典:賀門肖像画は『ファイナンス』大蔵省広報 平成6年(1994)4月 341号 「紙幣頭とお雇内国人」 寺尾雅治著 大蔵財務協会発行 99頁より 加藤河内家は『本日も休診 加藤譲太郎小個人史』平成6年(1994) 加藤譲治編集発行 57頁より

【 漉き屋・紙商を営む、真柄武十郎 】

 真柄武十郎は弘化3年(1846)、不老(おいず)村の真柄武兵衛家に長男として生まれます。真柄家は御紙屋ではありませんでしたが、こちらも名門の家柄で不老村庄屋を務め、奉書漉き屋と紙商を経営し、大店(おおだな)として手広く商売を営んでいました。(写真4)

(写真4)  真柄武十郎と不老村の店 出典:武十郎写真は『和紙の里 第21号』平成9年(1997) 「真柄武十郎の功績」 前川新一著 越前和紙を愛する今立の会発行 1頁より 店は『福井県下商工便覧』明治20年(1887) 龍泉堂発行より

【 加藤賀門と真柄武十郎、両者の岐路 】

 江戸時代が終わり明治時代を迎え、江戸幕府や諸藩への販路を失って不況のさなかにあった五箇を潤したのは、明治元年(1868)からの太政官札(だじょうかんさつ)の漉き立て需要です。太政官札は、明治新政府による日本最初の全国通用紙幣で、加藤賀門と真柄武十郎をはじめ、五箇の漉き屋では太政官札を漉き立てました。しかしこの漉き立ても明治3年(1870)4月で終了してしまい、ふたたび不況が五箇を襲います。
 同年の暮れ、五箇村奉書紙会社が設立され、賀門と武十郎が代表になります。2人は奉書の販売に力を注ぎますが経営は困難を極めました。さらに賀門へ追い討ちをかけたのが明治4年(1871)の岡蒸気切符用紙の漉き立てでしょう。岡蒸気切符用紙とは明治5年(1872)開通の新橋〜横浜間の汽車乗車券で、賀門が五箇での漉き立てをとりもち、東京へ送りますが印刷機にかからず不適当と返品されてしまいます[*8]。この失敗の最終責任は誰が取ったかは明らかになっていませんが、賀門がこの負債を背負ったのではないか、と私は推測します。

 太政官札の漉き立て後、賀門と武十郎は共同で五箇の和紙業復興を目指していましたが、努力むなしく両者をはじめ五箇中の漉き屋が不況に陥り、五箇では転廃業や出稼ぎが続出する状況でした。当時の五箇には紙漉き職人が新しい道を求めて故郷を離れて行くのを止めるだけの経済的な余裕はありませんでした。

 このような状況下、明治8年(1875)に印刷局からの勧誘があります。賀門(40歳)は新在家村の戸長(村長)を務めていましたが、岡蒸気切符用紙での多額の負債を背負い、苦悩の末に新しい道を求めて勧誘に応えて上京したのでしょう。武十郎(30歳)も勧誘されますが、彼は行き詰まっていた五箇の和紙業復興に力を注ぐため、勧誘を断って郷里にとどまります。
 印刷局からの勧誘は両者の岐路になったと考えられます。



■悲劇談の背景(賀門と武十郎の功績)

【「局紙」開発に関わり功績を残した加藤賀門 】

 加藤賀門をはじめ、印刷局に招かれた越前の職人たちは腕をふるい「越前鳥の子」の系譜を引いた国産紙幣用紙を完成させます。
 紙幣は外国製の印刷機にかけ、精密な図柄印刷を経て完成します。ここで賀門が漉き立てをとりもった岡蒸気切符の一件を思い出してみましょう。岡蒸気切符は印刷機にかからず返品されてしまいましたが、その後印刷局に招かれた賀門は印刷機にかかる紙幣用紙を完成させ、岡蒸気切符での失敗の雪辱を果たしたと考えることもできます。
 賀門は印刷局で手漉き紙の乾燥法を改良して功績を残します[*9]。また、最終的には判任官という役職まで昇進します[*10]。紙幣用紙完成の後には、三椏を原料にした印刷局製の「局紙」[*11]開発と製造にも関わったことでしょう。局紙も紙幣用紙同様に「越前鳥の子」の系譜を引いたと考えられます。



【「越前鳥の子」の販路に東奔西走した五箇のリーダー真柄武十郎 】

 印刷局の勧誘を断った真柄武十郎は、五箇の和紙業復興のために「越前鳥の子」の販路拡張に力を尽くします。太政官札漉き立て終了後の不況の中、明治4,5年(1871,72)頃から明治19年(1886)頃にかけて中央省庁と各府県の賞状/辞令用紙としての「透かし入り鳥の子紙」を受注するために東奔西走(とうほんせいそう)し、五箇の漉き屋にこれらを製造させていました[*12]。現代でいえば、「中央省庁の集まっている霞ヶ関と各都道府県の賞状/辞令用紙は、越前が一手に引き受けます」というようなものでしょう。さらに第二回内国勧業博覧会賞状用紙も受注、ドイツ人やイギリス人からも「鳥の子」の注文が入ります。
 また、明治31年(1898)に初めての組合「福井県岡本村製紙組合」が設立されますが、五箇の村長を務める傍(かたわ)ら組合設立委員長として熱烈に活動し、漉き屋を率いたのは武十郎でした。
 五箇の漉き家にとって、武十郎は産地をひっぱるリーダー的存在でした。



【 悲劇談の背景は「局紙」と「越前鳥の子」の敵対(賀門と武十郎の対照的な功績)】

 印刷局で開発された「局紙」は国内で賞状/辞令用紙などに使用されはじめたと考えられます。その根拠は武十郎自筆の『業務経歴書』にあります。同書には明治22年(1889)4月に大蔵省印刷局得能(とくのう)局長が透かし紙製造調査のために来村した時に、武十郎は得能局長に対して「従来五箇で製造していた透かし入り鳥の子紙を印刷局で製造したため、仕事を失い困っている」との陳情を述べた記述があるためです[*13]。この記述から読み取れることは、従来「越前鳥の子」の市場であった賞状/辞令用紙の分野に印刷局製の「透かし入り局紙」が入り込み、敵対する商品になって五箇の和紙業を圧迫している、という状況です。
 賀門が開発に関わった「局紙」は、武十郎が販路開拓に力を尽くしていた「越前鳥の子」のライバル商品として敵対する関係になっていたのです。
 ここまで見てきた賀門と武十郎の功績は、五箇の漉き屋には全く対照的に見えていたのではないでしょうか。両者の対照的な功績が五箇の漉き屋による加藤賀門への非難を生み、悲劇談が生まれる背景となったと考えられます。

ここまでお読みいただいたみなさまは「印刷局と加藤賀門は五箇の漉き屋の敵」というイメージを抱いてしまったかもしれませんが、ここからはそのイメージを払拭していきます。
「局紙」と「越前鳥の子」の敵対が背景となった悲劇談のその後、五箇は局紙の一大産地へと歩みはじめます。以降では、印刷局から帰郷した「小林伊兵衛/まつ夫妻」と「信洋社」をご紹介しながら、五箇が局紙の一大産地へと歩みだす過程を紐解いていきます。



■局紙の一大産地への歩み

【 印刷局から帰郷した小林伊兵衛/まつ夫妻 】

 印刷局の勧誘に応じた五箇の職人は誰一人として郷里に帰ることはなかったのでしょうか。実はそんなことはありません。印刷局から帰郷し、印刷局での経験や知識を五箇にもたらす人物もいました。第一陣メンバーの小林伊兵衛/まつ夫妻(新在家村)です。小林夫妻は印刷局では優秀な技術者として功績を残し、8年間を勤めたのち明治16年(1883)年に郷里五箇に帰郷し、高野製紙場(社長 高野治郎 新在家村)で紙漉きに従事します。


【 小林夫妻による信洋社での局紙製法伝授 】

 明治19年(1886)創立の信洋社(定友村)においては、小林夫妻は高野製紙場から転向して図引用紙の改良漉きと光沢紙の製法を伝授します[*14]。図引き用紙も光沢紙もどちらも局紙に属するものです。信洋社は社長に真柄武十郎、副社長に高野治郎、支配人に西野弥平次が就任した共同出資会社でした。


【 局紙製造の繁栄 】

 信洋社は設備投資資金に絡む問題によりわずか2年で解散してしまいますが、その後それぞれの自社である不老製紙場(真柄武十郎)、高野製紙場(高野治郎)、信洋舎(西野弥平次)に復帰し、局紙製造に従事します。信洋社を解散後すぐにそれぞれの自社で局紙製造を開始したことから、本当の解散理由は「設備投資資金の問題というよりも、局紙製造にある程度の目処がついたので自社生産での利益追求を目指すためだったのではないか」と私は推測します。
 その後五箇と印刷局との交流により、五箇に新しい知識や機械がもたらされ、続々と局紙の漉き屋が発足します。局紙製造は繁栄の道を歩み始め、五箇は局紙を中心とした一大産地へと成長していきます。



■五箇の局紙は「越前鳥の子」の里帰り

 いま一度五箇の局紙のルーツを振り返ってみましょう。
 まず加藤賀門が得意とした「越前鳥の子」の系譜を引いた紙幣用紙が印刷局で生まれ、さらにこの系譜は印刷局製の「局紙」へと引き継がれます。その後局紙の製法は小林夫妻により五箇へもたらされ、印刷局との交流が盛んになり、現在も越前和紙の品種のひとつとして生産が続けられている局紙類(賞状/証券用紙/名刺/ハガキ/印刷用紙など)のルーツとなりました。
 つまり、「越前鳥の子」が印刷局で進化し、印刷に適する「局紙」となって五箇に里帰りして繁栄をもたらした、と考えることができるのではないでしょうか。



■加藤賀門と真柄武十郎の最期

 賀門は明治25年(1892)11月、東京において57歳で永眠します[*15]。賀門が再び郷里の地を踏んだのかは今となっては分かりません。
 武十郎は組合設立を見届けられずに明治30年(1897)4月、51歳で永眠します。



■まとめと考察

 紙幣用紙開発のために印刷局の勧誘に応じ紙幣用紙と局紙開発に関わった加藤賀門、印刷局の勧誘を断り五箇の和紙業復興に力を尽くし続けた真柄武十郎、この両者は対照的な功績を残しました。「加藤賀門の悲劇談」が生まれた背景はこの両者の対照的な功績であり、それは「印刷局の局紙」と「越前鳥の子」の賞状/辞令用紙の市場における敵対関係でもありました。
 その後、局紙の製法は印刷局から帰郷した小林伊兵衛/まつ夫妻によって五箇にもたらされ、五箇は局紙を中心に一大産地へと成長していきます。

 現在の越前和紙の生産品である「局紙」のルーツを辿ってみると、まず賀門が得意としていた「越前鳥の子」があり、武十郎が受注に東奔西走した「賞状/辞令用紙の鳥の子」があります。武十郎の活躍と並行しつつ、印刷局では賀門が開発に関わった「印刷局の局紙」が生まれ、その後局紙の製法は小林夫妻によって五箇へともたらされた、といった流れになるでしょう。

 現在の越前和紙の生産品のひとつである局紙は「越前鳥の子」が印刷局で進化し、印刷に適する「局紙」となって里帰りして繁栄をもたらした、と考えることができるのではないでしょうか。

 さて、明治10年代に印刷局の局紙が賞状/辞令用紙の市場に入り込み始めてしばらくの間は、賀門をはじめ印刷局の勧誘に応じた人々への非難は大きかったかもしれません。しかし小林夫妻が帰郷後、五箇の局紙の繁栄を目の当たりにすると漉き屋による賀門への非難は次第に「昔ながらの悲劇談」へと変化していったのではないでしょうか。
 このような経過をたどり、現在の五箇では悲劇談に記されたような、印刷局や賀門に対しての非難は無く、むしろ本コラムに登場した賀門を含めた幕末〜明治時代の先人たち、ならびに印刷局への感謝と敬意の気持ちの方が大きく占めている、と私は考えます。


ここまでお読みいただきありがとうございました。

▼次回は今回登場した「越前鳥の子」についてみなさまと一緒に考えていきたいと思います。
第三回のテーマは『越前鳥の子の昔と今』です。
次回もお楽しみに!


- 脚注
[*1] 『大蔵省印刷局百年史 第1巻』昭和46年(1971) 大蔵省印刷局発行 291~293頁

[*2] 『岡本村史 近代史一部原稿』 飯田栄助著 昭和17年(1942) 越前市今立図書館蔵

[*3] 『大蔵省印刷局百年史 第2巻』昭和47年(1972) 大蔵省印刷局発行 270頁

[*4] 「鳥の子」とは日本の古代色、野鳥の卵殻の色名で、淡い黄褐色の雁皮紙を指します。鳥の子は緻密かつ滑らかな、上品でとても麗しい紙です。扁平(へんぺい)な雁皮繊維の特徴によって紙の密度が高いので、にじみが少なく発色の良い紙になります。越前は中世後期から高品質な鳥の子の産地として有名で、江戸時代には越前鳥の子は「紙の最たるもの・紙王というべきか」と高く評価されます。往時も現在も最高級の紙といえるでしょう。

[*5] 『大蔵省印刷局百年史 第2巻』昭和47年(1972) 大蔵省印刷局発行 272〜275頁

[*6] 『大蔵省印刷局百年史 第1巻』昭和46年(1971) 大蔵省印刷局発行 97頁

[*7] 「御紙屋」(おかみや)とは、江戸時代に福井藩の御用紙を漉き立てる特権が与えられた漉き屋のことで、御用の奉書/色奉書/鳥の子など、一般の漉き屋では生産を許されない紙を漉く名門の家柄です。また、他国へ販売する紙の改め役の特権も持っていました。御紙屋には三田村和泉・清水山城・加藤河内・高橋因幡などが居ました。

[*8] 『岡本村史』昭和31年(1956) 小葉田淳編著 岡本村史刊行会発行 424〜425頁
『今立町誌 第1巻 本編』昭和57年(1982) 今立町役場発行 737〜738頁
『今立町誌 第2巻 史料編』昭和56年(1981) 今立町役場発行 329〜330頁 加藤河内家文書「岡蒸気切手紙ニ付上申書」
『越前和紙のはなし』昭和48年 斎藤岩雄著 越前和紙を愛する今立の会発行 204〜206頁

[*9] 『印刷局沿革録』明治20年(1887) 印刷局発行 204頁
明治十二年十二月廿八日抄紙部技生加藤賀門抄造紙乾燥事業ニ付良法ヲ案出シ損紙ノ歩合ヲ減セリ

[*10] 『ファイナンス』大蔵省広報 平成6年(1994)4月 341号 「紙幣頭とお雇内国人」 寺尾雅治著 大蔵財務協会発行 99頁
『和紙の特別展/お札と花』出典目録 平成9年(1997) お札と切手の博物館/大蔵省印刷局記念館 https://www.npb.go.jp/ja/museum/tenji/kako/pdf/tenji_h08_03.pdf
判任官は現代でいえば、「上層部や幹部に近い位置付けの中間管理職」と考えられます。
『印刷局沿革録』明治20年(1887) 印刷局発行 312〜313頁・338〜339頁に依ると、明治18年(1885)時点の印刷局抄紙部(紙漉き工場)における職員総数643人中の3人が判任官という役職に就いています。また、明治19年(1886)時点では職員総数989人中の3人が判任官に就いています。

[*11] 「局紙」という名前は、印刷局で創生された紙だったことから生まれました。明治10年代に印刷局が三椏を原料に使用し、洋式印刷に適する緻密な高級紙を開発して名声を高めたことにより付いた名前です。滑らかな光沢と薄い卵黄色が品位と風格を感じさせる紙なので、賞状用紙などに向きます。印刷局の局紙は明治11年のパリを皮切りに、万国博覧会に出品されて高い評価を受けます。印刷局が局紙を輸出し始めると、海外では和製の羊皮紙(日本羊皮紙)とも呼ばれ好評を得ます。

[*12] ・中央省庁御用鳥の子紙(太政官透かし御紋/陸軍省/内務省/文部省透かし入など)
・各府県名透かし入辞令/褒状用紙(岐阜/福井/兵庫/茨城/長野/山形/石川/鳥取/岡山/広島/山口/愛媛/埼玉/大分など)
・第二回内国勧業博覧会賞状用紙
以上、『和紙の里 第21号』平成9年(1997) 「真柄武十郎の功績」 前川新一著 越前和紙を愛する今立の会発行より抜粋
これら透かし入り鳥の子紙が、後に賞状/証券用紙の市場を越前が独占する基礎となったと考えられます。

[*13] 『業務経歴書』年不詳 真柄武十郎筆 石川満夫蔵
明治22年4月大蔵省印刷局得能事務長透漉紙製造実査ノ為メ出張此際従来当地方ニ於テ抄製セシ透漉鳥ノ子紙類ヲシテ同局抄紙科ニ於テ製造セラレシタメ地方産業ヲ失ヒ営業躊躇ノ旨ヲ述ブ

[*14] 『高野二三伝』 昭和18年(1943)  戸羽山瀚編著発行 104頁
『和紙の里 第21号』平成9年(1997) 「真柄武十郎の功績」 前川新一著 越前和紙を愛する今立の会発行 9頁

[*15] 『和紙の特別展/お札と花』出典目録 平成9年(1997) お札と切手の博物館/大蔵省印刷局記念館 https://www.npb.go.jp/ja/museum/tenji/kako/pdf/tenji_h08_03.pdf
『本日も休診 加藤譲太郎小個人史』平成6年(1994) 加藤譲治編集発行 68頁


- 参考文献
『印刷局沿革録』明治20年(1887) 印刷局発行
『大蔵省印刷局百年史 第1巻』昭和46年(1971) 大蔵省印刷局発行
『大蔵省印刷局百年史 第2巻』昭和47年(1972) 大蔵省印刷局発行
『ファイナンス』大蔵省広報 平成6年(1994)4月 341号 「紙幣頭とお雇内国人」 寺尾雅治著 大蔵財務協会発行
『岡本村史』昭和31年(1956) 小葉田淳編著 岡本村史刊行会発行
『岡本村史 近代史一部原稿』昭和17年(1942) 飯田栄助著  越前市今立図書館蔵
『今立町誌 第1巻 本編』昭和57年(1982) 今立町役場発行
『今立町誌 第2巻 史料編』昭和56年(1981) 今立町役場発行
『本日も休診 加藤譲太郎小個人史』平成6年(1994) 加藤譲治編集発行 越前市紙の文化博物館蔵
『業務経歴書』年不詳 真柄武十郎筆 石川満夫蔵
『高野二三伝』 昭和18年(1943) 戸羽山瀚編著発行
『季刊和紙』第15号 平成10年(1998) 対談 前川新一 石川満夫「波乱を好機に変えた男たち」 全国手すき和紙連合会発行
『越前和紙のはなし』昭和48年 斎藤岩雄著 越前和紙を愛する今立の会発行
『和紙の里 第21号』平成9年(1997) 「真柄武十郎の功績」 前川新一著 越前和紙を愛する今立の会発行
『和紙の里 第23号』平成11年(1999)  「西野弥平次の生涯と功績」 前川新一著 越前和紙を愛する会発行
『和紙の里 第24号』平成12年(2000)  「高野治郎・豊・二三の生涯と功績」 前川新一著 越前和紙を愛する会発行


文責 (株)山路製紙所 山路勝海