1500年の長い歴史を築き上げ、紙の神様 紙祖神「川上御前」を祀る
越前和紙産地の特徴的な歴史と風土をご紹介します。

古代(古墳時代末ごろ・AD500年ごろ)

紙漉きの始まりと紙の神様

福井県越前市五箇地区(大滝町・岩本町・新在家町・不老町・定友町の5地区)とその近郊[*1]で作られている越前和紙は1500年の歴史があります。

この長い歴史を持つ越前和紙の成り立ちをさかのぼると、日本の紙業界の守り神[*2]である紙の神様 紙祖神 川上御前(かわかみごぜん)の伝説にたどり着きます。

五箇地区で言い伝えられている伝説ではおよそ1500年前、男大迹王(をほどのおおきみ・後の継体天皇)が越の国・越前地方を統治していたとされる5世紀末頃、岡太川の川上に美しい女性が現れ、紙漉きの技術を丁寧に教えました。喜んだ村人がその名をたずねると、「この川上に住む者」とだけ答え、姿を消してしまいました。村人はこの女性を川上御前として崇め、紙祖神として岡太(おかもと)神社に祀り、以来、紙漉きを生業として受け継いでいます。




- 脚注
[*1] 五箇地区は旧今立町の一部。古くは岡太郷・岡本村・五箇村と呼ばれました。
現在では和紙の生産地は五箇地区とその近郊の味真野地区、小浜の若狭和紙のみになりましたが、古くは以下に示す場所の様に県内全域で紙漉きが営まれていました。
 福井市大安寺村(楢原・田ノ谷・四十谷)(九頭竜川流域)
 福井市殿下村(畠中村)
 美山町宇坂村(大谷村)(足羽川流域)
 大野市西谷村・若生子など(真名川流域)
 大野市和泉村(穴馬村)
 鯖江市戸ノ口など
 越前市府中・大虫町・五箇村・野岡など
 池田町
 河野村(池ノ太良浦・赤萩村など)
 敦賀市
 小浜市
 名田庄村

[*2] 後述の ”お札のふるさと・日本の紙業界の守り神” にて詳しく解説します。

※本稿は以下の文献類を参考に作成しています。(順不同)
 大蔵省印刷局発行 「大蔵省印刷局百年史」
 印刷庁発行 「佐伯勝太郎伝記並論文集」
 研究者の方々が執筆された和紙や料紙論に関する書籍・論文など
 (公財)紙の博物館発行 機関紙「百万塔」
 和紙文化研究会発行 機関紙「和紙文化研究」・その他
 福井県史
 福井市郷土歴史博物館発行 「越前和紙の歴史展 解説総目録」
 越前市史 資料編
 岡本村史
 越前和紙を愛する会発行 機関紙「和紙の里」・その他
 福井県和紙工業協同組合組合発行 組合五十年史・見本帳など

古代(古墳時代・飛鳥時代・奈良時代)

写経用紙と戸籍・帳簿用紙

五箇の周辺地域には飛鳥時代中期(白鳳期)から奈良時代にかけての古代に寺院が多く建立されていて[*1]、奈良時代の正倉院文書に残された記述などから推測すると、これらの古代寺院や中央の寺院(大和政権下での寺院ならびに奈良朝廷下での寺院など)における写経用紙の需要に応えるべく、紙漉きが発展していったものと考えられます[*2][*3]。

また、奈良時代における大宝律令のもとでの越前府中への国府設置や、泰澄大師による大瀧寺(後の岡太神社・大滝神社)建立の理由のひとつに紙の産地だったことも考えられ、越前の紙は国府での戸籍・帳簿の作成に[*4]、そして先述の寺院や大瀧寺での写経に使用され、税としても朝廷へ貢進[*5]しながら高い技術水準の紙産地に成長したと推測されます。




- 脚注
[*1] 深草廃寺 野々宮廃寺 大虫廃寺 室谷廃寺

[*2] 正倉院文書での越前(越)国の初出は「写経勘使解」天平9年(AD737年)における越経紙・越経紙薄です。皇后宮職管理下の写経所にて写経に使われていたことがうかがえます。
正倉院文書(写経所文書)は皇后宮職管理下の写経所にて形成された古文書群で、この写経所は国分寺や東大寺大仏の建立を命じた聖武天皇の皇后である、光明皇后にかかわる写経機構です。

[*3] 越前紙を使用したと推測でき、現存する写経は「六人部東人願経(大唐内典録 巻第九第十残巻)」 天平勝宝7年(AD755年) (根津美術館蔵)です。
これは国医師六人部東人(むとべあずまびと)の、越前国と平城京での人脈の中で寄進を集めて実現した民間写経です。この写経は民間写経としては例外的な一切経で、一説によれば一切経は巻数5000巻前後・紙数8万枚以上にもなる、かなり大規模なものです。民間写経の為に東大寺写経所や平城京内のその他寺院が紙を寄進するとは考えにいので、この用紙は越前国での人脈により入手した越前国産と推測できます。原料は楮(榖紙)。

[*4] 年代のわかる越前国で産した最古の紙は正倉院文書「越前国正税帳(大税帳)」天平2年(AD730年)です。
これは帳簿として朝廷へ提出されたものが反古となり、その裏面を皇后宮職管理下の写経所が記録簿に再利用したものです。 奈良時代の律令制当時、戸籍・帳簿類の紙は現地調達が原則なのでこの紙は越前国産とみなされます。
正倉院の紙を調査した第1次報告書である「正倉院の紙」(1970年 日本経済新聞社発行)においては雁皮紙と報告されていましたが、近年行われた調査の第2次報告書である「正倉院紀要 第32号」(2010年 宮内庁正倉院事務所発行)によれば、楮紙を打紙したものであることが判明しています。
以下、同書からの引用を示します。
「第1次調査の結果では、雁皮を主体とした紙と判定されているが、今回、繊維種は楮と認められた。塵取りは非常に丁寧に行われている。繊維も短く、よく分散し、地合いが極めて良好である。原料の品質、漉き方ともに高いレベルである。打紙も非常に入念に行われている。繊維分析の結果、原料は楮を主体とするが、僅かに雁皮が混入することが分かった。」
さらに同書では佐渡国正税帳と越前国郡稲帳を比較し、「既にこの段階で後世に続く越前の抄紙技術の優位性が明白にみてとれる。」とされています。

[*5] 正倉院文書「図書寮解」宝亀5年(AD774年)の諸国未進紙並筆紙麻等事においては、紙・筆・紙麻(榖皮と斐皮)(楮と雁皮)を貢進する国として越前国の名がみえます。

古代・中世・近世(平安・鎌倉・室町・安土桃山・江戸時代)

鳥の子と奉書で名声

越前和紙の名を高めたのは、鳥の子と奉書です。

鳥の子:
鳥の子とは淡い茶褐色の雁皮紙を指す紙名です。日本の伝統色である鶏の卵殻の色(鳥の子色)から名付けられたとされています。
鳥の子は緻密かつ滑らかな、上品でとても麗しい紙です。
扁平(へんぺい)な雁皮繊維の特徴によって紙の密度が高いので、にじみが少なく発色の良い紙になります。
雁皮紙は奈良時代では斐紙(ひし)と呼称されていました。平安時代になると薄様・厚様と呼称されて、薄様は貴族女性の手紙や歌を書く懐紙として愛用され、厚様は主に装飾(荘厳)経や両面書写の歌集・典籍類に活用されていました。厚様は鎌倉時代後期に「鳥の子」と呼称されはじめ[*1]、武家の文書や書状用紙としても使われます。
「越前の鳥の子」は中世後期の宮廷女官・公家・寺院日記などの文献史料[*2]に名が見えるので、このころには別格の存在であったとうかがえます。また、これらの日記から越前の鳥の子は、天皇勅撰(ちょくせん)の歌集・宮廷や貴族間で贈答する歌集・典籍類・写経などに良質の料紙として珍重されていたと推測できます。鳥の子は越前のほか諸国でも漉かれていましたが、後の江戸時代には越前の鳥の子は「紙の最たるもの」[*3]、「紙王というべきか」[*4]と高く評価されます。

奉書:
奉書とは白色度が高い厚手の楮紙を指す紙名です。
奉書は平滑さでは鳥の子に劣りますが、自然な白さとキメの揃った地合いを備え、どことなく高貴さや品位も合わせ持つ紙です。
紙を白くする為に非繊維物質を洗い流す「紙だし」という工程が有り、長い楮繊維の特徴と相まって、ふっくらと厚手で丈夫な紙になります。
楮紙は奈良時代には榖紙(こくし)と呼称されていました。平安時代になると生成り色や白色の楮紙は主に檀紙(だんし)と総称され[*1][*5]、公家(貴族・公卿)・武家(武士)・社寺の公文書や書状用紙として、また、貴族男性の手紙や歌を書く懐紙として愛用されていました。
後の時代に白色の厚手の楮紙には「奉書」の名が付き、将軍や貴族が出す公文書である御教書(みぎょうしょ)用紙として重用されます[*1]。檀紙や奉書は越前のほか諸国でも漉かれていましたが、江戸時代には越前の奉書は最上級品[*6]として名声を高めます。

南北朝時代以降の戦乱の中、越前で産した紙は守護大名・戦国大名などそのときどきの権力者により保護と統制を受けながら奨励され、江戸時代には奉書・鳥の子・檀紙などが江戸幕府と福井藩の御用紙となります。




- 脚注
[*1] 本稿での紙名について
<鳥の子>
一説によれば鳥の子の呼称は平安時代には始まっていたとも考えられています。
伊勢物語の「鳥の子を 十つゝ十は 重ぬとも 思はぬ人を おもふものかは」(50段)での、鳥の子の解釈は”鳥の卵を100個(10×10)積み重ねる事が出来たとしても”と考えられていますが、重ねる事の意味を重視すればここでの鳥の子は卵ではなく、紙(手紙を交わす事)を意味している。とする見解もみられます。

<奉書>
奉書の本来の意味は、主人の意志を奉じた(拝聴した)従者の署名によって発給する文書の"形式"の事です。御教書(みぎょうしょ)、院宣(いんぜん)などがこれに当たりますが、それを記す為の用紙も奉書と呼称するようになります。
奉書紙の前身は平安時代の檀紙系統(引合・懐紙・みちのくの紙など)、または杉原紙系統と考えられていますが、奉書の呼称の始まりや檀紙・杉原系統から派生した経緯・時期などは諸説あり、はっきりと解明されていません。

<奈良時代の檀紙>
奈良時代にも檀紙は有りましたが、以下2種類の見解があり明らかな決着を見ていません。
① 奈良時代に盛んに行われた写経事業に際し、その書写に適した良質の紙である楮(榖)紙は、蚕繭の表面を思わせる肌合いの”面しぼ”と鈍い絹糸光沢を持ち合わせた、優雅な”繭のような紙”であったのではないか。この繭のような紙を名詞化、代名詞化する為に、青み・深みと同じように接尾語に「み」をつけて「繭み」として繭みの紙”万由三乃紙”と訓じたと思われる。官営の製紙工房である紙屋院で丁寧に漉かれた良質の楮紙に対して、皇族や書に関心の深い人達が、仏の恵みと感謝して紙名に”ほどこし(檀那)”を意味する仏教用語「檀」を当て、「檀紙」と書いて”万由三乃紙”と訓じ、また字音通り”ダンシ”と呼んだ。とする見解。
② 真弓は白檀が採れない我国で代用香木として檀像(仏像)に利用されていて、奈良時代を代表する大聖武(賢愚経)には殊更香木粒子状にみえる真弓の靭皮繊維が漉き込まれている。現段階で真弓紙の遺品は多くないが8世紀中期の写経事業の展開と密接な関係が認められる。繭のような紙をマユミといって、檀紙の字を当てたとして、奈良時代の檀紙の原料を楮とする間違いは、「万葉集」にみる榖皮で織った白栲からくるものである。古代において殊更に白色を色目として尊んだことにより、マユミの名称が同じ白色を際立たせた平安時代の檀紙(陸奥紙)の名称に引き継がれたことから生じたものである。とする見解。

<みちのくの紙>
みちのくの紙は陸奥国の紙であるとされていますが、しかしながら一説によれば、平安時代の女流作家(紫式部・清少納言など)は、平安京における官営の紙屋院紙と諸国民間の紙を対比する目的で、諸国民間の紙を「みちのくの紙」と記し、華やかな都とは一線を画す田舎の国々を「みちのく」という言葉によって連想させる意図が有ったのではないかと考えられています。つまり、「みちのく」は女流作家ならではの曖昧で余韻のこもった表現であり、必ずしも陸奥国を示しているとは限らない、とする見解も見られます。

※ 以上の様に、紙名としての鳥の子・奉書・檀紙・みちのくの紙などの原料や呼称に関する料紙論は諸説あり、明らかな決着をみていませんので、本稿では現時点で明らかな事実のみを記述しています。

[*2] 御湯殿上日記 蔭涼軒日録 尋尊大僧正記 実隆公記 言継卿記 宣胤卿記 蜷川親俊日記 談山神社文書
これらの史料には「ゑちせんとりのこ」「ゑちせんうちくもり(打雲)」「越前薄様」「越前のウス様、トリノ子」「薄鳥子」「禁裏源氏御料紙鳥子」「ゑちぜむとりのこ」「越前鳥子」「越前打曇(打雲)」などの記述がみえます。

[*3] 雍州府志 「およそ 加賀奉書 越前鳥子、是れを以て紙の最となす」

[*4] 和漢三才図会 「越前府中から出る。紙肌滑らかにして書きやすく、性堅くして久しきに耐え、紙王というべきか」

[*5] 平安時代から室町時代にかけての檀紙には、現在のような人工的に手を加えた縮緬状の皺(しぼ)は有りません。皺入りの檀紙は安土桃山時代に登場します。

[*6] 和漢三才図会 「越前府中より出るを上となす」
  新撰紙鑑(紙譜) 「越前より出る所、官家の奉書に用うるに堪たり」「越前の五箇村より漉き出すを上品とす」
  経済要録 「凡そ貴重なる紙を出すは越前五箇村を以て日本第一とす」

近世(江戸時代)

多彩な”紙技”

江戸時代になると実に様々な紙が漉き出されます。

色奉書、大高檀紙、絵奉書、引合紙、大間似合紙(鳥の子)、色鳥の子、墨流し鳥の子、打雲・飛雲・水玉などの漉模様鳥の子などの美術工芸紙が現れてきます[*1]。
その中でも特に多彩な美術工芸紙は、「漉き掛け」の打雲、「落し掛け」の飛雲のほかに、「落水」の水玉、型紙を使った「漉き込み・漉き出し」、さらに漉き込みの技法から「透かし」、「漉き入れ」など技巧をこらした漉き模様紙があり、これら加飾の技巧は他産地にはほとんど例を見ず、越前秘伝の技術として受け継がれています。

 越前の紙は江戸幕府と福井藩の御用紙となって幕府へ納められ[*2]、鳥の子は国絵図類[*3]・障壁画類・外交文書(国書)[*4]などに、奉書や檀紙は公文書・書状・儀礼などに、鳥の子や奉書の色(いろ)紙や漉き模様紙は、調度品装飾・歌集類・典籍類など多方面に活用されていたと推測されます。

また、縦横1.8mを超える大判紙の御用紙の漉き立て[*5]も越前のみで他産地には見られず、この様な伝統技術のもと、のちに襖紙の主産地としても発展して行きます。




- 脚注
[*1] これら江戸時代の多様な紙は以下に示すものなどが越前市 紙の文化博物館に収蔵されています。
・奉書
  五色奉書   天和年間(1681〜1683)
  五色布目奉書 天保年間(1830〜1844)か
  絵奉書    天保年間(1830〜1844)か
  透入白奉書  文化年間(1804〜1818)か

・檀紙
  五色檀紙(伊達紋) 享保年間(1716〜1735)

・鳥の子
  五色鳥の子紙         享保年間(1716〜1735)
  つなぎ舟に鳥漉掛模様鳥之子紙 延享年間(1744〜1747)
  小模様漉掛鳥之子紙      延享年間(1744〜1747)
  葵模様浮出鳥之子紙      享和以降(1801〜)
  花紋漉込五色鳥之子紙     天保年間(1830〜1846)

・墨流し
  鱗雲     寛政年間(1789〜1801)
  三色墨流奉書 延享年間(1744〜1747)

・打雲(鳥の子)
  両面打雲鳥之子紙       延享年間(1744〜1747)
  上下打雲鳥之子紙       延享年間(1744〜1747)
  漉掛上下打雲鳥之子紙     寛延年間(1748〜1750)
  上下打雲裏水玉鳥之子紙    享保年間(1716〜1735)
  蝙蝠模様打雲鳥之子紙     延享年間(1744〜1747)
  牡丹模様漉掛上下雲掛鳥之子紙 延享年間(1744〜1747)

・飛雲(奉書)
  飛雲奉書 (江戸時代中期)か

・水玉(鳥の子)
  水玉鳥之子紙   文政年間(1818〜1829)
  五色水玉鳥之子紙 延享年間(1744〜1747)

・その他 飛龍技法(落とし掛け)の源流か
  紋出し絵掛模様紙 享保年間(1716〜1735)

[*2] 幕府御用紙と福井藩御用紙は以下に示すように、奉書・色紙・模様紙・鳥の子・檀紙など、多種多様なものとなっています。
(幕府御用紙は主として「奉書」ですが、多種多様な福井藩御用紙も藩による専売制や商人による流通の結果、幕府からの購入を受けていたと考えられますので、両御用紙をまとめ合わせた記述としています。)
・奉書類  大中小の奉書、色奉書、縮緬奉書、墨流奉書、打曇り奉書、引合、他多数
・鳥の子類 大間似合、色鳥の子、生漉鳥の子、墨流鳥の子、打曇り鳥の子、他多数
・その他  大高檀紙、御鼻紙、水玉紙、絵奉書、絵半切紙など

[*3] 幕府は元禄年間に国絵図には越前間似合紙(鳥の子)を用いるよう指示しましたので、現在残っている元禄国絵図は越前の鳥の子と推測されます。
国絵図仕立様之覚 元禄10年(1697) 「絵図紙、越前生漉間似合上々紙、裏打は厚キ美濃紙一篇可被仕事」

[*4] 新在家村では、外交文書(国書)として朝鮮国へ返書する為の用紙「朝鮮国王宛返翰紙間似合鳥の子」の漉き立てや、その他にも「雁皮生漉間似合紙」、「大間似合紙」、「御朱印鳥の子」、「日光宮御幣紙鳥子紙」など、度々幕府御用鳥の子紙の受注生産をしていました。

[*5] 天明3年(1783)鳥の子打曇竪七尺五寸横九尺五寸、文政8年(1825)鳥の子竪六尺横九尺

近世・近代 (江戸時代から明治・大正)

お札のふるさと・日本の紙業界の守り神

お札(紙幣)には越前和紙が大きく関わっています。

江戸時代ではわが国で最初期の藩札とされる福井藩札、そして明治時代では明治新政府による初の全国統一紙幣、太政官札を漉き立てました。その後、紙幣用紙は輸入洋紙に切り替わりますが紙質が脆いので耐久性が低く、輸入紙に頼る事は偽造防止の観点からも好ましくなかった為、再び独自の紙幣用紙を開発することとなります。
東京の王子に紙幣寮抄紙局(しへいりょうしょうしきょく)が設置され[*1]、越前五箇村から募集された紙漉工は現地の局員と共に研究を重ね、三椏を原料として明ばんと松脂を調合、黒透かしを施して、耐久性と偽造防止に優れる近代紙幣用紙の礎を築きました。

大正時代の終わりごろ印刷局抄紙部に川上御前のご分霊が祀られます。
当時の製紙業界において最高峰の技術機関である国家機関の印刷局抄紙部に祀られたことで、川上御前はわが国の紙業界の守り神として、全国の洋紙・和紙業界から崇敬を集める神様となりました [*2]。




- 脚注
[*1] 後の印刷局抄紙部 (現)国立印刷局王子工場

[*2] 越前以外の和紙産地にも紙祖(紙の神様・水の神様・紙漉きを伝承した人物など)がお祀りされています。
しかしながら、数ある紙祖のなかでも当地岡太神社に祀られる紙の神様「川上御前」は、紙幣による越前五箇村と印刷局との関わりにより、印刷局抄紙部側から御分霊の勧請(かんじょう)を受け、抄紙部構内の飛鳥稲荷社との合祀に至ります。
その後、紙幣と紙祖神を介した越前五箇村と印刷局の深い関わりは、五箇村への技術指導、昭和初期の岡太神社・大滝神社の県社昇格運動、そして太平洋戦争戦時中には五箇村への手漉き紙幣工場設置(抄紙部出張所)、終戦後には武生(現越前市)への機械漉き紙幣工場の設置を経た以後も続きます。

近代(明治)

局紙を中心とした市場開拓と近代化

明治は近代化の時代となります。

紙幣用紙を通しての紙幣寮抄紙局(印刷局抄紙部)との往来は、五箇村の紙漉きに製紙薬品や機械について最新の情報をもたらします[*1]。
これら製紙薬品やロール機・ビーター・蒸気機関・製紙機械を駆使し、光沢紙・図引用紙・印刷紙・和製ケント紙などを総称する「局紙」[*2]や、インク止め和紙[*3]に代表される「改良紙」を産み出します。局紙と改良紙は主に洋式印刷や洋式書写の用途に適し、国内外の市場を一挙に拡大します。殊に三椏で漉かれた光沢紙や印刷紙などの三椏局紙は、海外において”和製の羊皮紙”と絶賛されました。

明治中期頃からは対外的な活動も活発に展開し、製紙技法(改良紙の技法)を各地に伝え[*4]、また国内外の博覧会へも積極的に参加してこれらの局紙・改良紙と各種の和紙は多数の賞を受賞します。

局紙はのちに株券・証券・賞状用紙の分野にも派生し、次々と大規模工場が設立されて五箇村は局紙を中心として一大和紙産地に成長しました。




- 脚注
[*1] 巷間では、「印刷局へ迎えられた越前の人々は生涯郷土の土地を踏む事は無かった。」などの昔ながらの悲劇談を見る事がありますが、実際には印刷局で学んだ技術を郷里に持ち帰って五箇村での製紙業へ応用する人物が居ました。

[*2] ”局”で創生された紙。洋式印刷に適する緻密な上質の紙を指します。

[*3] インク止めとは滲み止めの事で、硫酸ばん土(明ばん)と松脂により和紙に耐水性を持たせたものです。

[*4] 越前五箇を特徴付けるものとして、技術や技法を軽々しく他に漏らしてはならないという封鎖的な気風を指摘する傾向がありますが、明治の先人たちは県外からの求めに応じて石川県・岐阜県・愛知県・鳥取県・福岡県などの産地へ改良紙技法の指導を行いました。

近代(大正から昭和)

百花繚乱の漉き模様紙と機械漉きの進展

大正・昭和期は美術工芸紙の時代となります。

日本画用麻紙などの新たな用途の和紙が完成し、美術紙の分野でも大正水玉、雲華紙、すみれなど次々と独創的な美術紙が創り出されます。

また、大判紙(襖紙)の技術開発も活発になります。
襖や屏風などは本来、間似合紙などの紙を複数貼り継いで造られていましたが、近代になって襖判を一枚で漉き上げる大紙(おおがみ)の技術が進展します。これまで市場に無かった襖一枚貼りの大判紙が市場投入されて新たな需要が掘り起こされると、奉書から襖漉きに転換する漉き屋が続出し、模様紙の技法に創意工夫を施し数々の襖判模様紙が創り出され、 ここに鳥の子襖紙[*1]の産地としての新たな顔が生まれます。

昭和初期に美術小間紙が登場すると、美術工芸紙の市場は飛躍的に発展し、前述の江戸時代に行われていた「漉き掛け、落し掛け、落水、漉き込み・漉き出し、透かし、漉き入れ」に加えて、「流し込み、ひっかけ[*2]、水切り」、更に「大礼/オボナイ/雲龍/雲華に代表される、ネリと硫酸ばん土(明ばん)による繊維の凝固技術[*3]」など多様化が進んで正に百花繚乱、美術工芸紙は越前和紙の主流となります。
模様に和風の趣があり色鮮やかな越前和紙の美術小間紙は、書籍の装丁や見返し、掛け紙・包装・箱貼りなどに使用されます。現代でいうファンシーペーパーやファインペーパーの和風版といった用途で活用されます。

この大正・昭和期は抄紙機を導入して機械漉きに乗り出す漉き屋も増加し、戦後の高度経済成長期にかけて手漉き・機械漉きの両輪でますます発展して行きます。




- 脚注
[*1] 古来より雁皮紙を鳥の子と呼称していましたが、この頃から無地物・模様物を問わず襖紙も鳥の子と呼称する様になり、また局紙や印刷用紙などにも鳥の子名称を付ける様になります。
雁皮紙の持つ「優美さ」そして「緻密な紙質で印刷適正の良い紙」という性質にあやかっての事と推測します。

[*2] ひっかけは一説によれば昭和7年に京都の紙漉きが特許を得た技術の様で、経緯は定かではありませんが戦後に越前で盛んに造られるようになりました。

[*3] これらの凝固技術は越前で開発された技術です。大礼紙の起源は大正時代の大典紙や雲竜紙と考えられます。
大礼(たいれい)・本大礼(ほんたいれい)・レーヨン大礼(れーよんたいれい)・雲肌(くもはだ)・雲華(うんか)は、福井県和紙工業協同組合の登録商標です。

現代(平成)

「和紙」の国際化

平成の時代はITと国際化の時代と言えるでしょう。

社会のIT化により証券類の電子化などペーパーレス化が進む一方、パソコンとプリンターが普及し個人印刷が身近になり、インクジェットプリンターに対応した和紙が開発されました。
超大型のインクジェットプリンターも登場し、デジタル撮影技術の進歩とともに、 これらの和紙は襖絵や掛け軸などに代表される文化財の高精細レプリカ(複製)製作にも多く使用されています。
また、家屋の洋風化に伴って襖紙の需要は減ってきますが、昭和の時代から引き継いだ美術小間紙や模様紙の技術も研ぎ澄ましつつ、それらを土台として新たな模様紙の開発、そして和紙造形へも発展します。

インターネットの普及により越前和紙の大判紙、模様紙、造形技術などが国内外から注目され、店舗装飾、内装材、アート、造形品などのインテリア向けの需要も生み出され、新製品開発も進みます。

同時に和紙という言葉が世界共通語になり、版画や絵画素材として海外への輸出も増え、アーティストとの交流やコラボレーションの機会も増えてきます。

現代(令和)

伝統を受け継いで未来へ

わが国の独自文化である、平安時代以降の和様の文化は和紙により発展したとも考えられます。
いま一度越前で漉かれた紙を振り返れば、写経、戸籍・計帳、鳥の子、奉書、檀紙、各種の美術工芸紙・模様紙、お札、局紙、印刷紙、襖紙、書画用紙、インテリア・造形などなど。
これらの紙のほとんどが和様の文化に関わり、そして和様の文化を支えてきた紙です。これらの紙は「和様の紙」、すなわち「和紙」と定義できるかもしれません。

ここまで記しましたように和紙には用途が有り、古来から現在までわたしたちは様々な用途のための和紙の誂えに応えてきました。
さて、わたしたち日本人には紙自体を愛で、尊び、紙に対して親近感を持つ、世界でも珍しい国民性が存在します。異文化が混じり合い、テクノロジーの進化と共存する近年だからこそ、わたしたちに根付く和様の文化への憧れはさらに高まるのではないかと感じます。
古く平安の時代から日本人の美意識に刻み込まれた、多彩で豊かな和様の文化を支え続ける和紙、それに魅了される海外の需要にも応えてゆくー。

越前和紙は伝統を受け継ぎ、紙祖神の見守る土地でこれからも「用」と「誂え」に応える産地としてあゆみ続けます。

風土1

紙の神様 紙祖神 岡太神社・大滝神社

岡太(おかもと)神社・大滝神社は、この里に紙漉きの技を伝えたといわれる紙の神様「川上御前(かわかみごぜん)」を紙祖神(しそしん)として祀り、全国の紙業界から崇敬を集めています。
神体山である大徳山(だいとくさん)の頂上にある奥の院と、そのふもとに建つ里宮からなり、奥の院には岡太神社と大滝神社の両本殿が並び建ち、里宮はこれらを併せて祀っています。
里宮社殿は、江戸時代後期の社殿建築の粋を集めて再建されたもので、拝殿と本殿が結合した複合社殿の複雑な構成と、社殿を彩る装飾彫刻が特徴的です。

風土2

神と紙の祭り

紙の神様 紙祖神「川上御前」を祀る岡太神社・大滝神社の祭礼は、古い様式を今も連綿と受け継いでいる、全国でも珍しいお祭りです。
和紙の里を挙げての神と紙の祭りは、神と人、その人たちの生業が深くかかわり同一化するお祭りで、日本の祭りの心そのものと言えるでしょう。

神聖な奥の院へつづら折りを登り神様をお神輿で迎えに行くー。
里宮に神様を迎えると、人々は生業を支える神様に久々に触れ合えて喜びに活気づき、祭りは大いに賑わいます。